「英語なんて通じればいい」について

まず,「通じない英語よりも通じる英語の方がいい」というのは当たり前です.それを踏まえた上で,個人的なお話をします.


以前一緒に仕事をしていた人が,“英語なんて通じればいい派”でした.

彼は,英語がそこそこできる,と周囲には思われていましたが,発音はいわゆるカタカナ英語で,文法も雑な感じでした.名詞の前にはとりあえず「The(ザ)」を付けとけ,みたいな話し方でした.

ただ,それで特に苦労もしていないようでしたし,なにしろ通じるのだからスゴい,発音や文法なんかより,やはり話す内容が大事なのだ,などと,当時の私は思っていました.


しばらくして,私の英語学習が進み,以前よりも英語がよくわかるようになった頃,彼がネイティブと会話しているのを横目で見る機会がありました.

「その表現は日本語直訳だ,こう言い換えれば英語らしい表現になるのに」などと生意気なことを考えつつ,ふと彼の話を聞いているネイティブの顔を見ました.

するとそのネイティブは,彼の英語に真摯に,本当に真剣に耳を傾けて,どうにかして意味を取ろうとしているようでした.

わからないところはゆっくりと聞き返し,彼の(時に見当違いな)返答をまた吟味して意味を追い,そして会話を成立させていました.


そこで私は気がつきました.「通じる」というのは,相手があってのことなのだと.全く当たり前なのですが.


そして,そのネイティブのように,発音や細かい文法がどうであれ,こちらの話を真剣に聞いてくれて,わからないところは聞き返してくれる,そんな人を相手にしたときにこそ,「通じればいい」なんて開き直らず,できるだけ相手にわかりやすい英語を話すようにしよう,もちろん完璧にネイティブのように話すのは不可能だろうけど,それに近づけるように努力しよう.それが,相手の「非ネイティブを相手にしたときの真摯さ」に対する礼儀だ,そう思いました.


また,「日本語を勉強している外国人」と日本語で話すとき,自分が相手とどう話していたのかを省みつつ,同時に,「日本語なんて通じればいい」などと言っている日本語学習者には会ったことがないな,と思いました.